思い込み

苦手な人に会った時も、嫌がらず、ただ何も考えずに自分のその時の反応や思考を
観察して気づくための練習の場と考えればいいんです。
そう考えれば、すごく楽になるでしょう。

 

生まれてから今まで、親や学校、書物、知人等から影響されたり、自分で体験した

ことからできた思い込みや当たり前と思っていること。これを取り除き、自分の都合

の良い新しい思い込みや当たり前を作ってしまう。そのための方法はたくさんある。
だから、多くの本があるのだ。
思い込みは、あくまでも本人が選んだことなので、自分の判断、ある意味自己責任

だけど、次の瞬間からそれは変えることができる。その変えたことが潜在意識の上で

わかるのが、気分や22段階のメソッド。
それが内面から外面へ反映されていく。根気よく。ただし、気軽に潜在意識へ働き

かけて行く。難しく考えたり、書物に書いている通り生真面目にするとネガティブ

になってしまうから、気軽に適当にしよう。その方がポジティブでいられる。
あくまでも思い込みや当たり前と思っていることに善悪や優劣なんか一切ない。
世の中は、それが反映されているだけなのだから、世の中のことにも善悪や優劣

なんて一切ない。だから、人をうらやんだり恨んだり、または見下すことは、それこそ

勝手な思い込みに基づくエゴによる判断だと気づくこと。ましな気分になるように

自分で無数にある考え方の中から自由に選択する。結果を焦ったりするのも、早く

しないと損をするという思い込み、若い方が何をするにしても得だし、死ぬまでの

人生で終了してしまうから、それまでにいかに長い期間得をするかという思い込み

がある。人生は「源」である 私 の指示によって思考や行動、身体も含めた環境や

世界が作られ、環境として提供されてくる。過去や未来を含めた時間ですらそう。
だから、行動で急いだり、無理をして追いつけ、追い越そう、これまでの分を取り戻す

んだといって頑張るなんで愚の骨頂なんだろうな。もっと、 私 を「わたしの状況

(心の奥にあるもの)」を大事にすることが意外と近道だったりするんじゃないかな。

ネットやテレビ、雑誌も含めて、今後役に立つかもと思って集めたり、見たりすること

も思い込み。それが今楽しければ、別にしてもいいけど、いつまでたっても来ない

 未来 のために一番大事な肝心な 今 が楽しくなく負担になるのならば意味が

ないのかもしれないな。僕は今まで、家を大事にしていかなくてはという思い込みに

縛られていた。
でも、それも思い込み。そういう思い込みを外して、自分が良い気分になる。親兄弟とはほどほどに良い関係で。妻と子供とも楽しく生きていけるようにしていきたい。
今家にいることで生じている規制(朝食を台所で食べられない。夕食やお風呂に入るのに時間が遅くなったり、部屋で食べることになる。ネット回線が勝手に切られている。顔を洗ったり、洗濯をしたりするのにも、時間制限がある。)といったことも、

あくまで家にいているから。
別に真理でもないし、転居すればすぐに消え去ってしまうこと。例えば、米国で日本語

が通じないからといって怒ったりは普通しない。日本語を話したかったら、日本に行け

ば良いぐらいの感じで軽く考えておこう。

家を守ったり、大事にしたり、親を大事にするのに、なにもこの家にいて、嫌な気分や

制限の中で我慢しながら生活する方法しかないと思い込む必要はないのだ。別の所に

いてもそれはできる。一緒にする必要はない。。2つの事はまったく違うことだから。

人の考え方や伝記、制度も含めて、自分が嫌な気持ちなのに、無理やりするのは、

自己否定していることになる。あくまでも、方法論や考え方、行動も含めて、自分が

良いと思ったことをする。因みに、試験を通るのに勉強しなきゃならないというのも

思い込みで。試験を通るのに勉強がいやならしなくても良い。
ただ、試験を通るには勉強しなくてはいけない思い込みがものすごく強くあるので、その思い込みを外して、潜在意識に試験を通ったという意識を埋め込む。それが面倒なら

やはり、勉強したほうが楽なんだろうな。
観察したり、気づきの中で自己否定しないように気を付けよう。未来の自分がこう

なってくれなきゃ困ると思っている時点でそうなんだけれどもね。こうしないと

いけない。これができない自分は劣っている。こうなった方が良い。
こうしたらもっと良くなる(今の自分はしてないから)とかそういうことも結局

自己否定しているだけ。今の自分で充分だし、その上でもっと気分がよく、自分の

したいことができるように選択する。
仕事も、遊びも、人生も。対人関係においても一番大事なのは、自分の感情や思考の

方向、今ある現状や結果ではなく、今ある感情や思考の方向を観察し、気づくこと。

今に意識を向けること。思考や行動やこの環境が 私 によって作られたものである

という前提でいること。責任感なんていらない。きちんとしたり、良くしよう。気を

つかおうとか、気に入られようとかもいらない。適当でいいや。一番大事なことは、

自分の感情や意識のあり方。だって、この方がすごく楽じゃない。
楽した方がすごくポジティブに行くのだし。しなきゃいけないという方向に向き

やすい。こんなこと、したい事じゃないからね。本当に。だから、適当でいいし。

時間内でいてるだけで良い。楽して、楽しい時間と意識を向ける。
良くしようとか、頑張ってしようとか、自分のポジションを考えるとか、一切考え

ない。ただ、ただ、自分の内面と行動パターンを観察し気づくだけ。人と接した時

とか、金に対する時とか。その上で、一番ましな思考や感情を選ぶように気をつける

だけ。結果なんてどうでもよい。今しかないのだから。今、自分を大事にしている

のか。それが一番大事だ。本当責任感なんていらない。失敗してても別にばれようと

ばれなかろうと関係なくいいや。神様が見ているという思い込みを手放せば、随分楽に

なる。適当にしてもいいけど(行動)、自分の思考は適当でなく大事にしよう。

比較しない。恨んだり、許さないこともしない。公務員の給与アップや知人の結婚した事とか、うまくいっていることと比較しても、完全に同じ条件でもないし、気に

しない。結局、今の自分はそんな事もできなかった(給与アップや結婚等)劣ったもの

と無意識に決めつけている(自己否定)ことになる。恨んだり、腹が立ったことを

許さないのも、結局許すこともできないその劣ったものと無意識に決めつけることに

なる。だから、相手が損をすることだと思っていても、結局自分が損をしていることに

なるから比較したり、恨んだせず、許す。
逆に気を遣う必要もない。自分より下と思い込んでいる人に対して。これもエゴや

思い込みであり、同じ条件でないから適当に考える。工場でハサミも、気をつかって

借りてこない。面倒くさいし。優越感や自己正当化に繋がることで結局、苦しみに

出会うことになる。
人を憐れみで助けるといった考えはやめる。そうしないとだめという思い込みがある。

多様性、思考の選択の違いだけ。自分が未来に成功して、復讐するというエゴも結局

自己否定なだけだから。エゴだと気づけばそれで良い。
ワンネスも何となく、宇宙意識と私(=源)は一緒なんだと思っていればそれでいつか

体感できるのでは、気軽に思っておこう。エゴは自分のふりをして、ネガティブに

なりそうな事を昔の事でもいいから、うまく出してくる。いくら出てきても、後に

なってからでも観察して気づけばいい。気づいた時点で成功だ。

普通の感情時にポジティブになれば良い。無理矢理感情を上げても、それはきらきら★

ハッピーだし。エゴやペインボディーだから意味がない。極力、ネガティブな事から

避けて(ニュース等)。人との会話でもそう。自分の望む事(ポジティブな事)を

考えておく。
無理にポジティブにしなくてもよいし、その時点で一番ましな状況で十分OK。それ

以上はエゴですよ。未来の状況、こうなったらこうする(復讐も含めて)
すべて、エゴやペインボディーによる自己否定。自分は 今 現在のを否定している

だけ。今の自分しか自分はいないから、ずっとその状態が続くだけ。今の自分を褒めて

あげて、肯定してあげましょう。自己否定や清貧の思想なんてクソくらえだ。
自分を大事にしていないし、自己否定しているだけで、なんら良くならない。
努力はあくまでも意味のある努力をしないとね。幸せだと潜在意識に刻み込む努力

とかならすごく意味があるけど、行動はいくらやってもすごく効率が悪い。効率よく

する方法は少しわかってきたから、それをうまく使っていこう。
あと、思い込みをぶっ壊せ。ツマラナイ、意味のない。新聞や本、学校教育で

習ったり、親や歴史から入ってきた思い込み、当たり前だと思っていたり、神仏が

見ているから、とかいった考えも含め、近所がどうとか、そういうのでも自分が

ネガティブになるもの取っ払ってしまおう。すっきりするし、今まで何を悩んで

いたんだ、苦しんでいたのかがよくわかる。
今言っている工場に行っているのも、内面や行動パターンの観察と気づきのために行っていると思えばいい。何か貢献するために行くのではなく、自分は集団行動している

時にどういう思考が出てくるのか。どう反応するのかをよく見ておく。自分の感情を

観察すればより良い。どんな思考が出てたっていいんだ。気づいてエゴや

ペインボディーと同一化しなければいいんだ。苦しい時は、その前提となる思い込み

が影響している時がある。もし、その思い込みを外せば、どんな気分になるのか。
確かめてみる。これも観察と気づき。

良い気分になる事は、あまり考えすぎるとそれ自体がエゴに覆われたネガティブな感情

を誘発してしまう。それでは、せっかくしている意味がない。とりあえず、今自分が

できる中で一番ましな考えと感情をとりあえず選ぶ。
望んだりすることは、とりあえず望んでもいいけれどネガティブになるなら、他の事で

少しでも現状で一番いいfeelを選ぶ。食べ物や過去の旅行、テレビの面白かった番組、

何かあるはずだ。とりあえず、そっちだけ選ぶ。思考したけりゃ一番いいのは何も

考えないこと。ネガティブな事をエゴが出してくるので、何も考えない方がまし。
ネガティブな時はネガティブな事をエゴが出してくるので、何も考えないほうがまし。
ネガティブが出てきたら、「こんにちはエゴさん。でも、僕は君と一体化しないよ。

君の意見は尊重するけど僕は別だよ。」エゴの意見は良いとか悪いとか何もない。

ただただエゴの意見で自分の意見ではない。「僕は完璧で幸せだ」という自分の意見。

当たり前の事を自分は持っている。これが現実の世界に出てくる。
当たり前だから、今の世界で僕は本気で「僕は完璧で幸せだ」と思っているから、

だから何回も書いて、僕である潜在意識に良く理解してもらう。
あとリラックスはすごく大切。考えすぎても楽しいかどうか。そちらが重要。お風呂の

湯舟に浸かるとすごくリラックスができる。最高だね。
いつも心の中で呟いている。「僕は完璧だし、幸せ」ノートにも書いたり、ふとそう

思ったので。しかも、現状でも肯定しやすいよね。「僕は完璧だし、幸せ!」最高。

自分は大いなる自分であり、「源」である。それは宇宙意識でもあり、全ての宇宙と

一体である。その源である自分が身体をつくり、外の環境をつくり、
源に対して体験したいとリクエストした状態を体験できるようにしてくれている。

セックスでも、そして 今 それを体験している。次の体験は、今まで体験したこと

からエゴの補佐を受け(思考、感情、五感で感じたこと)、選択して、大いなる自分、

源が指示して体験する環境をつくりだす。
指示といっても、それは当たり前。こうなって普通だと思っていることを体験する。

だから、そう思ってすごく良い気分になれなくても良い。
ネガティブな気分を無理のない範囲で避けるようにしてさえいけば。
自分の今の現状を観察して、ネガティブなもの(思考から五感から常識だと思っている

ものも、そもそも常識が狂っているからネガティブな気分になる)があったら、

それに気づく。自分と一体化していないから、浮かんできてもそれはエゴがあるだけ。
自分で選択してない。どんなこともネガティブを惹起するなら、一体化せず気づくだけでよい。
なぜこれが解りにくいのか。例えば、自転車乗車方法の説明書があって、周りには誰も

自転車に乗ったことはおろか本物を見たこともない。
もちろんyoutubeのような乗車している動画も見られない。
説明書だけで乗りこなそうと思うとき、説明書の言葉だけでは理解できない。説明書に

はイラストもほとんどない。
いくつかの説明書を読んで、実際に自転車に乗ってみて体験しないと乗りこなせない。
自転車の運転を言葉だけで説明しようとすれば難しいし、人それぞれ随分違うし、

受け止め方も違うだろう。だから、うまくいきにくいのではないか。
最後に、「これは違っている。遠回りしているそんな楽な方法なんてないよ。」
「また、失敗して人生を終わらせるのか。」と言っているのはエゴですよ。
それと一体化するのかどうか。

自分が引き寄せようと思う度にエゴが色んな形で出してきているのかも。
淡々としているのと、その希望の前提を下げたほうが良いのかな。
ex.かわいい娘と付き合う。
 →前提 エゴ かわいいこは希少価値 → 嘘
        かわいい、ぶさいくに何ら差はない。
        個人的に選んだだけで、たまたま。
        だから難しいものでもない。
        人それぞれだから、かわいくても簡単に付き合える。という常識に

        変える。
自分がネガティブになる常識をもっているからネガティブになる。その常識から自由

になれるか。
ex.お金は貯まりにくいという常識。お金を貯めたいと思っていたら矛盾する考えの

 ためネガティブになる。
 常識から自由になるか、望まないかどちらか。→できたら常識からの自由を。
ただし、身体は飛べないとか、という常識はかなり強いし、別に無理に変える必要は

ないので、そのあたりは変えなくてもよいのでは。変えたいものだけ。
因みに身体は怪我をしたり、消滅したりするという常識があるからその通りになるが、

私は何が起ころうと変わらなく存在している。どんなことでもそれが当たり前のこと

だと心底思っているならその通りにすることができる。
聖書にも同じように書いているように思う。

はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と

言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげ

なさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

(マルコ11章20節~26節)


Aが、BからSNS等で親しみを感じられていて苦しい気分にいるのは。
自分と比較して、親しまれていないと思い込むことで自己否定している。
それ以前に、親しみを感じられているほうが優秀だという思い込みがある。
Bにそう思われることは、価値があることだという思い込みがある。
文章や口頭でそう言われないと、親しまれていないと思い込んでいる。
そういう思い込みが自分を苦しめているのであって、親しみを感じられている行為自体

にはなんら苦しみはない。客観的事実からエゴやペインボディーがこれまでの勝手な

思い込みを前提として、苦しみに繋がるものを 私 に出してくる。
それを 私 のことだと一体化することで、苦しみが潜在意識に刻み込まれるし、

苦しくなる。そして、その状況を引き寄せて、その思考や環境などの状態を作り出し、

また 次の 今 の状況にも体験することで継続しているように感じる。

釈迦も目覚めた人とは、気づきを極めた人なんではないかなと思う。ピッパラ樹の下に

坐して瞑想に入り、悟りに達したり、「自灯明・法灯明」という考えを弟子に残して

いったり。
般若心経も含めてお経を唱えたり、写経をする事によって瞑想の代わりになっている

のでないか。空と心や行動パターンの観察や気づきは同じではないだろうか。
それにより、その時だけでも悟ることになるのではないだろうか。散歩(リラックス

してのんびりしながら)している時もそれに入るのではないだろうか。

まだ、僕はその手前にいる。これを始めた当初の目的も達成できていない。初めてもう

これで2年半だ。だから、これが正しいのかどうかまだ結果が出てないので

わからない。
でもとりあえず、証拠として今現在の自分の状況と自分の頭で考えたものを忘備録と

して書き留めて、後日の参考とする。
乱筆だが、今後修正していくかもしれない。今月から急に観察と気づきが理解できる

ようになってきたので、随分精神面で楽にはなっている。
しかし、新しい考え方が常識や当たり前になっていないのか外的環境までは

変化していない。結果を焦らず、続けていこう。